ハース効果を試してみる                         (C)Y.Utsunomia 2008-2010 聴覚生理には様々な現象があるが、ハース効果はマスキング効果やカクテルパーティー 効果などと並び、ステレオ音源の制作にしばしば活用される。 何が「正しいステレオ」なのかは諸説があるが、筆者は生の(電気伝送系を使用しない )聴覚世界(そもそもそれが何なのかが謎なのだが・・・・生耳、あるいは意識できる 聴覚情報系は必ずしも「その場」にある真実の音を聴いてはいない)に近似の、あるい は脳が欲する情報体系を「正しいステレオ」と想定している。それには生の聴覚世界が 空間を前提とした情報エントロピーのストリームそのものであり、聴覚が如何にしてそ の中から有効な情報を抽出しているのかの仮説を活用する必要がある。  現在の音楽ビジネスや一般的制作環境では、聴覚的根拠よりも放送メディアやアナロ グ・レコード時代の亡霊に悩まされながら作業を行っている現実がある。例えばどのよ うな分野の制作であっても、マルチレコーディングのスタイルは一般的で、この制作環 境下では、最終的な作業として「ミックスダウン」あるいは「トラックダウン」と呼ば れる工程を経るが、それぞれのトラックは「時差無く」「位相差無く」行われることが 正しいとされる。  その根拠は、旧世代のアナログステレオ放送(テレビやFMラジオ)メディアやアナロ グレコードの記録方式が時差や位相差に弱く、それらがあると歪みやレベルの詰め込み 率(録音レベル・伝送レベル)高くとることができないことに由来する。そもそもこれ らの旧世代のメディアは単一伝送系(つまりモノ)を基本とし、ステレオ化はモノを拡 張したものであったからだ。(2チャンネルステレオ化ではなく、1.5チャンネルくら いか)したがってステレオというものの、モノとの互換性がきわめて重視されるのであ る。  しかし時代は進み、デジタル化が推進された結果、CDでは完全独立の2チャンネルが 実現し位相差や時差は完全に許容できるようになった。とはいえ、売れ筋音楽において は、より強い表現が相変わらず求められ続けている。2チャンネル伝送系において最強 の表現とは、2つのチャンネルがユニゾンのとき、つまり2つのチャンネルが同成分、同 位相、同レベル、のとき、すなわちセンターモノになってしまうのだ。また現存するほ とんどの制作環境は、PANというレベル差のみを設定(時差、位相差は不可)すること しか相変わらずできない。  売れ筋は前記のように、位相差や時差の無いモノの集積物なのだが、ペアマイク 収録されたステレオでは、2つのマイク位置が両耳のように異なる位置にあるため、最 適化されたペアマイクステレオでは適切に位相差や時差、レベル差があり、このため2 つのスピーカーのセンターから聴き取り位置がずれていても、正しい広がり感が得られ る。マルチ録音でも、それぞれの素材がモノのとき、PANによるレベル差だけでなく、 時差や位相差を付加することにより、同様の広がりや位置情報を組み込むことができる。 ハース効果を組み込む ハース効果とは時差による定位位置情報の変化をいうもので、左右の耳に到達する時差 による定位制御が可能であることを意味している。一般的なDAWでは容易にハース効果 を組み込むことができないが、audacityでは簡単に時差を作り出すことができる。    先ず素材になるモノトラックを選び、コピー・アンド・ペーストで同一のトラックを もうひとつ作成する。 それぞれのPANをそれぞれLとRにセットし、 タイムシフトツールを用いて、先行させたいトラックの波形を左にずらせる。 ・・・ハース効果により先行したチャンネル(LまたはR)に定位が移動したはずだ。 もちろん先行させないほうのチャンネルの波形を右にずらせても同様の効果は得られ る。  両耳の間隔は個人差があるが20cm程度なので、あまり大きな時差にならないように注 意する。 せいぜい1/1000〜1/2000秒程度を上限とし、効果を確かめよう。PANによる効果とは相 当に印象が異なるはずだ。 ○設定したずれの固定 望むような効果が得られるずれが見つかっても、モノトラック2つのままではその効果 を固定できない。audacityには自動頭揃えの機能があるため、モノトラック2つをその ままセーブしても次に読み込んだ際に、ずれはなくなってしまうからだ。 ずれを固定する方法はいくつかある。波形を左あるいは右にずらせたときに、波形は 0秒以前にはみだしたり、右にずらせた場合は空白が生じる。これらのはみ出し部分を 削除するか、あるいは空白を「無音」に変換しなければならない。 もうひとつの方法は2つのトラックを隣り合わせになるようにソートし、「ステレオト ラックを作成」コマンドで2つのトラックを合体することで、効果を固定できる。 または「ミックスして作成」コマンドを用いて固定するのも良いだろう。 ハース効果はこのような加工で実感することができるが、操作者が故意にこの効果を 用いることは、表現上大変有効なことであると言えるが、できの悪いDAWやデジタルミ キサー、デジタルレコーダーではトラック間で、その設定も行わないにもかかわらず、 トラック間、あるいはメインL/R間でハース効果(時差)が生じる。比較的近年の製品 でもそのような問題をかかえたものが結構存在し、もちろんそのようなセットでは、 正確なセンター定位は得られないし、モノとの互換ではコムフィルターが生じ、正確な 音色伝送ができない。「レーテンシー」の項を参照。  このハース効果を故意に作り出す手法は、このような設計上生じるダメージとしての 時差を補正することにも利用できる。 ○著名作品のハース効果使用例  JEFF BECK 「Who Else!」EPIC RECORD ESCA 7437 一曲目「WHAT MAMA SAID」 曲冒頭13秒75からのタッピング奏法のギターフレーズ  筆者はこのアルバムの制作に何らの関わりも無いので、意味付けや解釈は推論に過 ぎないが、使用された技術は再現性のある検証に基づく。  このフレーズは大変「カッコ良い」イントロにふさわしいものだが、タイトルから 考えると、口うるさく響く母の小言なのか。カッコ良いからといって、発しているの は「自分」ではないので、サウンド・パートとしては「首座(センター定位)」では なく、首座からある程度の「距離」を含んでいなければならない。、  この表現の実現のために、ハース効果を使用している。ギターフレーズそのものは モノで、左チャンネルに対して、右チャンネルは1151サンプル(26.0ms at 44.1kHzfs) 遅れ、しかも極性反転されている。モノ信号をステレオ化するときによく使う手法だ。  このギターフレーズのオリジナルトラックを復元してみるには、 1)audacityで一旦「ステレオからモノラルへ」を実行し、 2)左チャンネル(上のトラック)をタイムシフトツールで右方向に  1151サンプルずらせる *このとき表示時間軸を「+ルーペ」で適当に拡大し、曲冒頭にカーソルを移し、  次に画面下中央の時間窓の「長さ」にチェックし、  中央の時間窓に1151サンプルを入力すると、  冒頭から正確に1151サンプルの長さが範囲指定される。  次にCtrl+Bでラベルを付けて、その後でタイムシフトツールで左チャンネルを  移動すると、ラベルの左端にトラック冒頭がジャストで合うと、黄色線があらわれ  ると同時にそこへ引き込まれるので、容易に遅れを確定できる。 3)次に右トラック全体またはギターフレーズの部分のみ「上下を反転」すると  録音時のオリジナルトラックを復元できる。復元して聴いてみると、案外普通の  音作りだ。  ハース効果と極性の反転により、随分サウンドの印象が変化していることがわかる。   センター定位を取り戻せたことの確認は、WaveSpectra.exeを起動し、リサージュを  表示することで容易に確認できる。(ただしデバイスが適切にセットされているこ  とが必要)   デバイス設定は、audacityの出力がMMEでオンボードデバイスへ出力していると  きには「WAVE出力MIX」へ送られるので、WaveSpectra.exeの入力デバイス(録音  デバイス)も「WAVE出力MIX」(Windows XP時)に設定する。また、「WAVE出力MIX」  のボリュームスライダーは、下から2段目(スライダーツマミの上端が下から2目盛  り目にわずかにかからない程度にすると、おおよそユニティーになる。 *どうやってその音作りを見抜くか(リクエストにより執筆)  このようなミックス済みトラックを、自動で解析することはできません。 音色や定位感を聴き取り、PANによるものか、リバーブや初期反射音の付加によるも のか、ハース効果によるものか、あるいは極性反転などを含めた複合の処理なのか、 などの識別は、ヒアリングによる判断からおよその仮定をたてて、検証方法を考えま す。  スタジオでの録音作業では時間単価が高額なこともあり、一々検証はしませんが、 こんなサウンドにしたいという欲求や要求は多く、ヒアリングで素早く解析し、再現 できることがエンジニアリングには要求される。(日ごろから遊んでいれば、構えな くても音を聴くだけで、およその手口はわかるものです)  ヒントはいくつかある。L・R各チャンネルと個別に聴いてみると、ほぼ同じ音、 同じ音量であることから、PAN、初期反射音の付加、移相処理・イコライゼーション は除外される。残るはハース効果なのですが、モノで聴いてもコムフィルター音に ならないことから、LRどちらかのチャンネルが極性反転されていることも推測できる。 (注意深く聴けば、LRそれぞれを単独で聴いたときに、そのギターパートのノリが LRで異なっていることがわかる。LチャンネルはジャストでRチャンネルはやや後ノリ になっている)  後は加工時の工程と逆のプロセスを辿り、検証するだけだ。検証はセンター定位が 回復したかをヒアリングで判定することと、リサージュで確認する。  ちなみに、このテキストではVocalShifter、WaveTone、VocalReducerなどの解析 分離抽出ソフトを紹介しているが、これらにこのハース効果と極性反転の付いたフレ ーズを読み込ませても「全く」といってよいほど解析や分離ができない。 原理的に困難なのであるが、上記のような復元操作を行うことで、解析や分離の成功 率が飛躍的に高まる。