はじめに                         (C)Y.Utsunomia 2008-2010  この度は本情報のご利用、ご苦労様です。  筆者が商業音楽の制作者として音楽に関わるようになって、今年で33年が経過した。 一体何をしていたのだろう。 その間音楽を取り巻く環境や音楽の社会的位置づけは大きく変化し、また使用される機 材も激変したし、音楽の価値観も変わり果てた。 筆者はその中で、機材やスタジオの構築(設計施工も)をも手がける独自のスタイルで、 他との差別化をはかり、生き残ってきたことを自負しているが、このところの出版環境 の没落振り、権威の失墜には目を見張るものがある。  とくにデジタル化、ネットワーク化がインフラとして定着してからの状況は画期的と もいえるほどだ。権威の失墜は大いに結構なのだが、受け継ぐべき財産を受け継いでい ない作品はだらしなく、そして弱い。    筆者の師匠の一人は「道具は所詮道具であり、創造性は道具の影響を受けるべきでは ない」という。筆者は多くの道具を自らの作品のために自ら考案作成してきたが、 その結果言える事は「創造性は道具に拘束されてしまう」という現実だ。その拘束が どのようなものかは現状を見れば明白だ。 このテキストはそのような現状に失望したり、あらたな音楽の可能性を求めてやまない 人たちに贈るために執筆したものだ。  これから音楽や編集を始めようとする人たちには、多少敷居が高すぎるかもしれない。 むしろ、ある程度の経験があり、あるいは一旦audacityに見切りをつけた人たちに贈り たい。 本書はaudacityというフリー(GPL)のオーディオ編集のためのソフトウェアについての 解説書だ。自宅やスタジオで音楽制作を行っている者の多くには、贔屓(ひいき)のソ フトがあり、それ以外のソフトの使用は不義理とでも思うのか、あるいは邪教とでも思 うのか忌み嫌う傾向がある。また筆者のようにPCベースの使用に嫌悪したりもする。 筆者も始めてaudacityとめぐり合ったのは、M-AUDIO社のMT-2496に附属しているディス クにバンドル(ver,1.2.3)されていたからなのだが、当初正直なところ「何なんだ、こ れは?」(あまり良い印象ではなかった)というのが感想だった。  自分の仕事柄、使用してみたいソフトはそれが如何に高額であろうと、何でもほとん ど使い放題なのだが(提供されるか、あるいは勝手に購入されている・・使ったことの ないソフトは、BBCで使用されているSADIEくらいだろう)、正直なところ操作性や機能 の良いものは音が悪く、総じて言える事は不安定で信頼性に乏しいということだった。 音の良し悪しや信頼性[注1]では専用機(本書では各種のフラッシュメモリー・レコー ダーやAlesis社のHD24を想定)には遠く及ばない現実がある(詳しくは別著、ハードデ ィスクレコーダー考を参照)。  しかしこれらの専用機の多くは、編集機能や各種の処理ができないものが多く(それ が可能な専用機はおおむね音も信頼性も低いというテスト結果が・・)、しかし音楽制 作にはその両方が必要不可欠なのだ。おそらく、この録音再生と各種の処理の両者には、 「相矛盾する要因があるために両立できない」[注2]のだが、そのように割り切って 考えると、コンピュータ・ベースで行うべきことが明確に見えてくる。つまりコンピュ ータベースで行うことが、各種の処理のみと考えるならば、評価の方法や求められる要 件が単純化され、いくつかのソフトウェアでは十分なポテンシャルを確認することがで きた。(録音再生まで含めると全滅だが・・) その一つがaudacityなのだが、筆者がその結論に至るまでに相当な紆余曲折があったこ とは否定しない。その原因は「見た目の操作パネルの、感覚的操作」では十分な能力が 発揮できないことと、英語版マニュアルに書かれている仕様を読むだけでは、正しい 作法が理解できないことに原因があった。 おそらくaudacityに初めて接した皆さん(とくに音楽系)も、こんなもの「自分には 合わない!」(とくにある程度の録音制作知識のある方)と思うようだ。その原因は audacityには、使用者の無理な要求(要求そのものの矛盾や、PCそのものの能力を超え るリアルタイム処理など)があっても、それを回避するようには設計されていないこと にある(無論、バグが原因のこともあるが)。最も簡単にその状況に出会いたいな ら単純に30トラックほど読み込んで、再生してみるとよい。audacityは読み込んだ音情 報を全てのトラックについて、内部32bit浮動小数点演算で処理し再生しようとする。 当たり前な再生なのだが、この程度でPCは処理能力をオーバーし、結果、各トラックは ばらばらに、途切れ途切れに再生され、あげく停止ボタンもしばらくは受付けなくなる。 30トラック以上を普通に再生できる、他のDAWではどのように処理しているのだろう? トラック数に応じてビット深度を浅くしたり、再生用に別の圧縮ファイルを用意したり、 全体が圧縮エンジンでできているものすらある。要するに毎秒あたりのビットストリー ムを減らすことで対応しているのだ。30トラックも開くとトラックあたり実質16ビット 以下になっているだろう。騙されているのだ!!  まあこれを騙されていると思うか、親切な配慮と感じるか、あるいは高性能とするか は使用者次第なのだが・・。 つまり使用トラックが少ないほど音が良く、トラックが多いほど音品質が劣化していく のだ。(audacityではこのような劣化が無い反面、引きつったり操作が困難になったり する)だからといって、これらのDAWの説明書には「使用するトラックが少ないほど高 品位」とは書かれていない。 世の中にこのようなソフトしかないなら、私はこのような作文ではなく、「少ないトラ ックで実現する、効果的アレンジ」でも執筆しているのかもしれないし、あるいは 「トラックの節約手順と内部スレッドの見極め方」などの作文をしているかもしれない。 audacityでは引きつるくらいのトラック数(マシンパワーで異なる)であっても、正常 にミックスしたり、各種の処理を品位を保ったまま行うことができる。再生ができない だけなのだ。しかし多くの使用者はこの時点でaudacityに見切りをつけてしまう。 再生が最も基本的な軽い処理だと勘違いしているのだ。実は汎用PCにおいて最も厳しい 要求が「当たり前の再生」であることを忘れてはいけない。[注3] 私のaudacityへの偏見が改善したのは、ある日突然にではなく極めて徐々にであった。 例えば、時間軸上のズレを補正するのにサンプル単位で(あるいは1サンプル以下の 精度で)トラックをシフトし、他のトラックとミックスしなければならない場合や、 再現性のある正確なレベル調整や、処理工程上一時的に著しくレベルを下げ、処理後に 元のレベルに増幅するなどの、ポップスではあまり行わない処理を正常にこなせたのは audacityのみであった。 筆者と交友のある制作者やアーティストたちと、最近の愛用品のことなどで話が盛り 上がった席でのこと、筆者は彼らが「某PやS」の愛用者と思っていたらさにあらず、 要所要所ではaudacityのヘビーユーザーであることが発覚した事件がある。彼らの多 くは某カタログ月刊誌の常連やライターなのだが、面白いのは、一人一人使い方や、 目的が全く違うことだ。共通していることは素材整音やマスタリング作業の一部、納 品用の仕上げなどの重要な部分で使用されることだ。よくプロは高い機材を・・・と 素人は考えがちだが、確かにモニターなどではその傾向があるが、我々の会話は「結局 XXXしかないよね・・」で終わることが多い。XXXに入る機材やソフトはアマチュアの 皆様でも余裕で入手できるものが多いです。では、雑誌記事はどういうことなのか? その新しい機材について「上手に」レポートすることが彼らの仕事だ。自分の愛機や 好みを差し挟む余裕などどこにもないし、だいいち記事が成立しない上に、人によっ てはトップシークレットだからだ。このマニュアルの作成は彼らのリクエストでもあ る。同席していたお仲間ライターの一人は「え、それ何?」。プロの世界は厳しい。 また、あるときには「未知の処理」を行うのに、論理によってのみ回答が得られるよう な使い方をする場合(聴覚によらない判断を要求される場合・・測定などの分野では そのことが多い)や、サンプル単位での当たり前の演算など、 使い込むに従いaudacityしか残らなかったのだ。冷静に考えてみるとaudacityが特に優 れているのではなく、当たり前の結果を出しているにすぎないだけなのだが。 audacityとの付き合いが深まるうちに、何ができて何が苦手かも把握できてきたのであ る。それとともに現在の一般的DAW環境が、随分偏って発展したものかも見えてきたし、 その結果の一つである音楽ビジネスや社会評価の惨憺たる現状をみたときに、自分の中 にあった偏見が融解したのと同じ状況を社会還元してみたくなった。 筆者が音楽制作を学んだ環境は、塩谷宏、諸井誠、上浪渡といった「古典」電子音楽を 支えた人たちが構築したものである。2009年3月に愛育社から「川崎弘二著、増版・日本 の電子音楽」という書籍が発行されたが、この書籍はそのことを思い出させてくれた。 当初は「現代の制作環境における電子音楽教本」の執筆を考えていたが、電子音楽に関 する書籍はすでに多数ある上、筆者は彼らに電子音楽を押し付けられはしなかったし、 彼らが想像もしなかった分野へ私は進んでしまった。しかし、私の音楽制作手法の多く は紛れもなく電子音楽手法であり、他の作品群との差別化の原動力になっていると自負 する。 本書はaudacityに改宗を求めるものではない。また電子音楽に特化したものでもない。 (当初はその予定だったが・・) またPC環境を否定するものでも礼賛するものでもない。 目の前にある道具をうまく活用しようという、ただそれだけのことだ。 本書では、しばしばaudacityの作業音品位について、高く評価はしているが、DAW世界 に限定せず、一般的な情報処理の品位としてみたときに、決して特別に高い品位がある わけではなく、スペックとして極当たり前の性能を当たり前に実現しているに過ぎない と筆者は評価している。逆に言えば当たり前でない製品が多いということになる。それ らの使用者が、その当たり前でないことと引き換えに突出した何かを実現しているなら それも一理あるのだが・・。 品位に限って言うなら、無論道具に起因する傾向はあるので、どれでも同等というわけ には行かないが、基本的に品位は道具によって自動的に確保されるわけではなく、操作 者によって人為的に確保されるものだ。そうでなければプロフェッショナルなどという 語は存在しない。本書はプロフェッショナル・マニュアルである。 [注1]いわゆる「オーディオ」の嗜みが下火になって以降(デジタル化以降)、音の良 し悪しはあまり語られることがなくなった。 また、どういうわけか音楽分野において「リアリズム」が語られることも稀だ。 権威は不要だが、論理は必要だと思う。 信頼性とは「命を託す」ことであり、道具に関して言うならラッキーな結果を信じるこ とではなく、最悪な状況で頼りになることだ。最悪な状況とは電源断やウィルスの侵入 や、メディア・クラッシュなどを指す。ときには使用者の誤操作も含む。 信頼性とはこれらすべての最悪を勝手に乗り越えてくれることではなく、使用者の中に その想定や検証があるか否かだ。PCには資金をつぎ込むのに、UPSやアースは導入しよう ともしない。「イヤなことは忘れよう、楽しいことだけ考えていたい」としか思えない。 筆者の知る限りこんな世界は音楽分野だけだ・・。不健康だ! [注2]ストリームとファイルシステムの項で解説。 [注3]ビデオで考えればよくわかる。近年のホームビデオカメラはフラッシュメモリー を記録媒体とし、フルハイビジョンが当たり前だが、PCで再生しようとするとどれほど のマシンパワーを要求されるか・・。デュアルコア3GHz程度でも正常再生は困難なのだ が、そのビデオカメラではいとも簡単に正常再生できるではないか。そのコストと消費 電力の差は途方も無い。 [**]このテキストは公開用に、ほぼ1年がかりでまとめたものだが、そもそもは自分が 作業を行うときに作成している自分のための作業ノートを、他人が読んでもわかるよう に再編したものだ。一つには利他的な考えもあってのことだが、それ以上に他人が読ん でわかるようにするには(基本は先ず自分用だが)、曖昧な理解や先入観や請売りをでき るだけ排除し、論理的に組み立てることを推進しなければ、到底適うものではない。単 に手書きノートからテキスト化するだけではなく、ほとんどの記述内容は再度検証を 行い、曖昧さや先入観を排除した。  その排除は、DAWという存在そのものにとどまらず、ポップスの成立や近代録音史その ものにまでおよぶ。しかしこれは筆者がニヒルだからではなく(たまにそのように誤解 されることがあるようだが)、確固たる(自分が心底納得できる)作品を世に送り出す ための心構えにすぎない。その成果がどの程度のものなのかは、私が自称することでは なく皆さんが判断することです。その想いが強いので全ての「肩書き」を排除していま す。表現者には生み出した「作品」しかないのですから。肩書きはそれを汚すだけです。 [***]このテキストは明確に利益誘導を目的としている。しかし誘導する先は直接 「筆者」にではなく、豊かだった音楽世界に、だ。その復興は筆者に精神的、経済的利 益をもたらせるからだ。このテキストの無償公開は、そのための投資とも言える。 本シリーズの構成と利用の手引き・利用規約 ○プレーンテキスト版をご利用の際は、フォントをFixed sysやMSゴシック、MS明朝など でご利用下さい。半角、全角のスペース表現が正常化します。 ○とくに読んでいく順番は定めないが、まずINDEXファイルを開き、自分の興味のある部 分から読むとよいだろう。そのように配慮し、重要部分は繰り返し出現する。 ○本書には筆者が現在の音楽制作現場に不足していると考える、「思想」「哲学」などが 押し付けがましく含まれている。また、ときに爺臭い説教じみた記述が頻出しているが、 読み飛ばすことに筆者はやぶさかではない。先ずは使えるようになることです。 現在のところ未証明のことや、通説に反する記述があるが、筆者の予言ととらえていた だきたい。これらを丸写しで論文化しないよう、また引用や出典は明確に。 ○本書は必要に応じてバージョンアップするが、バージョンの管理はZIPファイルのファ イル名に含まれる日付で行う。もちろん最新のものが記述内容がより正しい、だろう。 ○本書の現状はプレーンテキストであるが、これは機種依存を排除することとメモ書き を容易にするための配慮である。本格的に読みこなすには紙印字出力することを推奨。 また、図版と練習問題は逐次増補する予定ではあるが、本文に比べファイルサイズが大 型化するため、配布方法は鋭意検討する。 ○本書には参考文献や出典がほとんどないが、文中に登場する手法や検証、計算などの 多くは筆者の独自のものであり、これが著作原本となる。 ○この作文の著作権は筆者である宇都宮泰に帰属する。 ○Audacity(R)ソフトウェアの著作権はAudacity Teamにあります。(C)1999-2008 ○Audacity(R)の名称はDominic Mazzoniの登録商標です。 ○本書で紹介するAudacity以外のフリーウェアについて、その著作権はそれぞれの作者 に帰属する。取り扱いはそれぞれに附属のマニュアルに準拠ください。このサイトでは 一切の再配布やリンクは行いません。 ○再配布は改変のないZIPファイルオリジナル(各バージョンについて)でのみ可能と する。(メモ記入などがある場合は不可だが、添付ファイルとして、そのクレジットが ある場合は可)有償の配布、印刷出版物への掲載は筆者のクレジットとともに要報告。 *他言語への翻訳は歓迎。 ○引用の場合は、出典として宇都宮泰とタイトルの明記が必要。 ○セミナーや教育機関での使用は要報告。 筆者による出張セミナーは、ギャランティーとスケジュールとコンセプトにより検討 します。 ○間違いの指摘、レポートや感想、リクエストは随時受け付けます。遠慮無用です。 ☆本書のシリーズとして、初心者向けに特化したビギナーズ・ガイドは好評公開中、 本書シリーズを活用し、ゲーム感覚で楽しめる「練習問題1と2」も好評公開中、 また、録音制作者向けに特化したものを検討中です。