議論の尽きない問題、または宇都宮説                         (C)Y.Utsunomia 2008-2010  このテキストを公開するにあたり、様々な方面にサンプルを送り、意見を求めたが、 その中で反論や指摘があったものを取り上げたい。 反論に対する反論や、ご指摘に対する釈明の前に、筆者の立場と方針を明確化しておく 必要がある。  こと音に関する問題は奥が深く、迷信に近いものから、説明はできないが確かに存在 する事実、また論理や先人の探求により当然(必然ではない)の事象がある。実際に時代 の荒波を生き抜き、正しい判断を行い後世に作品を残すには、独自の判断や論理、さら には経験や感覚まで総動員しなければならないし、その結果を世に問う必要がある。 そして何より「完成」に導かねばならない。  また筆者の方針上、理論だけでは無力と考え、作品上に証明が結実しなければならな いと考えている。従って論理では確かに納得できても、結果が結実できないものは排除、 あるいは異なる仮説をとらざるを得ない。  寄せられたご意見の大半は上記の問題に抵触するもので、本テキストの読者に 混乱を招く可能性があることから、(とくに引用文献が無いことからも)何が問題なの か、あるいは筆者がどのように考えているのかを明確化する必要がある。 問題の原点は、論理や原理、あるいは物理検証に根拠があるわけでなく、 「聴いてみてオカシイ」 ことが発端になっている。そこから逆に物理検証を試みたりするわけだが、常に明確な 答えが得られるわけではない。「現状における推論」が、論理や物理検証よりも優先さ せなければ前に進めないことも、筆者の立場なのである。  したがってどうしても追検証や確認ができない場合や、納得ができない説明がある場 合、「宇都宮のローカル論理」であるとするのも一興であろう。ただ何を根拠に筆者が 論理展開しているのか、豊富な出版物作品があるので、検証の上「ローカル論理」化し ていただきたい。私は研究者であるよりも、対象である現象でありたいと願っている。 ○ジッタの問題  筆者の作文ではPCベースは一般的にジッタが多く、専用機では少ない・・から あげく、再現されるジッタは有用な情報、とまで論じている。  ジッタの問題は容易に数値化ができず、当初(20年ほど前まで)漠然と音の良い装置 と悪い装置があるという程度の認識だった。しかし、バイナリーレベルで差分抽出や エラー処理について容易に検証ができるようになり、それらのデータ列の異変だけで、 この音の良し悪しが生ずるわけではなく、さらに同じ装置でも動作条件(とくにワード クロックの作成方法、もっと詳細に述べるならPLLの回路構成)により音品質に大差 が生じることから、筆者はバイナリレベル以外の劣化要因を「ジッタ」に代表させてい る。(バイナリレベルで差異が出ることは論外だが、これすら満たせないセットは多い)  筆者の設備では直接ジッタを定量抽出できない(ジッタメーターで見えるほどでは 破滅的、定性的にはロックインフィルタ出力後のアイパターンやPLLのCVの波形の滲み として観測はできる)ので、逆にジッタ成分合成し、クロックに変調注入することで シミュレーションし、最終的にはヒアリング判断を行っている。その検証のための独自 のクロック作成回路や、影響を最小化したクロック作成回路について、開発製作から行 なっているが、その公開も予定している。  厄介な問題は音の歪率や周波数位相特性などでは、ほとんど有意な違いが無いのに明 確に音品質(解像度やいわゆる空気感といった情報)が異なることだ。この問題が原因 で、CDプレスの際に一旦金型が出来上がった後に、プレス工場を変更したことがあるほ どだ。(JON & Utsunomia ()を例として挙げる・・国内有名プレス工場が作成した、ハ イジッタのテストプレス版とその金型を所有・・具体例として提示可能) (現在でも著名な大手マスタリングスタジオでは「アナログ・コピー」が原則だが、この 原則はU-maticの時代から変らぬ原則で、この一見原始的な処理はレッドブックに規定 があり、ジッタ、連続性、音色の保存において意味のあることなのである。だからとい ってすべての場面でアナログコピーが優位なわけではない。ほとんどの処理やコピー では、正確なデジタルコピーに分がある)  また筆者の仕事は音楽制作であるが、一般への有料頒布による利益追求と同時に、 自分で楽しむ(妥協を排したものとして)ためのものでもあることから、一般制作レベル に対して差別化も図られていなければならない。このため「普通はこの程度だから・・」 という妥協は許されず、結果このような結論に至ってしまったのである。また、この努 力は作品の評価やセールス、競争力に大きな影響を及ぼすようだ。(差別化が目的なの で、公開や啓蒙に積極的ではなかったが・・)  この問題に関して議論が沸騰するようであれば、体験もできる学問的論証も行ってみ たいとも思っている。 ○フーリエ問題  フーリエ問題について言及すると、どの場面でも「神様」を批判したかのような非難が 工学系の方々から押し寄せてくる。原因のひとつは筆者の無知にあるのだが、その応用 である分析、合成について数学的論理的完全性ばかりが強調されているように思える。 ウェーブレット変換やコンボリューション(注1)に未来を託しているようにも思えるが、 個人的にはいかがなものかとも思う。 確かに、それまでは見たくても見れなかった詳細な音の成り立ちを、さも有り何な描き 方、ときにグラフでときに数値であるいは概念で提示してくれる。しかし、フーリエの 離散級数はどこまでも定積分で、分厚いボンレスハムを透かして見ている感が否めない。 筆者が血気盛んだった70年代末ころ、トランジェント解析(音の立ち上がり部分と随伴 騒音の解析)にFFT導入を試みていたが、その時間軸の分厚さに閉口し、Z変換に救いを 求めて右往左往していたが、現状も構図はあまり変っていないように見える。実際に 音響目的のA/D、D/A変換機の現状は大半がデルタシグマ型であるし、空間サンプリング の試みもインパルスレスポンスの解法にすぎない。フーリエもZもラプラス変換により 相互に行き来できるとされてはいるが、筆者にはどちらも、音の成り立ちの一側面でし かないように思える。 いくら見えるようになっても、結局、聴こえるかたちで結果を出さなければどうしよう もない、というのが筆者の論拠だ。(決して可能性を否定しているわけではないし、む しろ期待しているのだが、何かが足らないような気がしないでもない。肝心な部分を 「不確定性」で断じることもハイゼンベルグやボーアに失礼と思う。なぜならボンレス ハムはうまく薄くスライスすれば、はっきりと組成を透かして見ることができるし、 その方がおいしい////// ちなみに筆者は学部入試の小論文テストで、フーリエ合成論 とそのためのハード設計を展開したほどの熱心な信者です) ○ストリームとファイル問題  この論を主張すると、そんなものナイキスト論において等価だ、という門前払い的待 遇を受けるので、筆者はすっかり慣れっこになっているが、両者は少なくともハードウ ェア上、信頼上に大きな差異がある。要は「時間」の取り扱いで、前者は時間情報を何ら かの方法で含み、後者は順番(論理上は時間軸から分離解放)しか保存されない。  前者は多くの場合、メディア上の物理位置として保存されるが、設計者によりその解 釈はまちまちで、その特質が生かされているものとそうでないものがある。しかし、前 者の場合メディアクラッシュしたものから情報復元する場合も、正常に再生する場合も、 基本的に同等の手続きであるのに対して、後者では上位の情報ヒエラルキーである管理 情報を先に復元しなければ、何もできない。  この問題はクラッシュした情報の復元〜 (もちろん前者の方がはるかに復元は容易・・また現実的に実務上はクラッシュしてい ない正常再生であっても、エラー訂正無しにデジタルオーディオは成立しない・・程度 の差があるだけ) だけでなく、単純に再生するだけでも、必要バッファー量(=操作レスポンス)、訂正 アルゴリズム、ハードディスク・ドライブではヘッドのシーク量(=発熱量=寿命)に 多大な影響を及ぼしている。また回路設計上もまったく異なるものになる。  これらは信頼性に関わる問題で、音品質そのものに直接影響を与えるものでないこと は、筆者にも何等の疑いも無く理解できる。  ところが両者を一同に集め(できるだけ諸元の近いものを)、一対比較すると明確な 音品質の相違や傾向があらわれるのである。正直なところ信頼性以外の部分では、筆者 は明快に万人を説得するだけの論拠を持っているわけでないが、この比較実験から得ら れた傾向とメカニズムの間に明確な相関があることは事実なので、そこから推論してい るにすぎない。 信頼性に関しては、業務への導入以前に、繰り返し破壊試験と復元試験を行った結果な ので、実務として揺らぐ要素は無い。製造者よりも理論構築者よりも使用者の立場を 堅持している自負がある(別文「HDR考」参照)。  「時間」をどのように取り扱えばよいのか(本質的には、それが音楽そのものなのだ が)我々はおそらくよく理解できていないのだと思う。客観的に見て、我々の思考形態 は「時間の取り扱いが苦手」な性質を持っている、というのが筆者の持論であることは、 筆者の作文の中で頻出しているが(この作文では「前後・上下の反転」「概論」の項を 参照)、この例(ストリームvsファイル)もその一つかもしれない。 ○信頼性の考え方(別文「HDR考」参照)(「必要ハード」の項を参照)  この内容も「そこまで誰が考えるのか」「それを言ってはおしまいだ」「有り得ない」 などの賛辞(?)の言葉が数多く寄せられる項目だ。記録メディアアクセス中の電源断、 エラーレートの管理、落下試験、それらの複合(HDR考)、破損ファイルの修復と破壊 などだが、何もデジタルに恨みがあるわけではなく、アナログ時代の評価基準を当ては めているにすぎない。不審な点があれば納得できるまで探求し習得する。全てが可能だ ったわけではないが、筆者はアナログ時代電気回路は言うに及ばず、スピーカー振動板 の着脱や、磁気回路の設計製作、コンデンサーマイクロホンの設計や製作・振動板の 着脱から、磁気ヘッドの製造(これは半人前)、DSPのプログラミング(一部言語のみ) ・・作っては壊しそれをまた修理の繰り返しが私の人生だ(もちろん音楽の合間に、 押しかけ弟子入りしたりして基本を習得することが多いのだが)。振り返って考えて みると、そうしなければ得られなかった音楽制作での運用技術は多大だ。  愛用のバイク(映画「ステップ・アクロス・ザ・ボーダー」に登場)など、核兵器によ る電磁波現象まで想定した電装系(全3重発電系統、メカニカル進角CDI、超高圧縮比な ど)と、軽油までも実用使用可能な燃料寛容度を装備している。 (それが一体何の役に立つのやら)  録音環境や作業環境で電源が不安定になったり、衝撃や誤操作などは基本想定と考え られる。  音楽は聴き手の精神に訴えかけるものであり、制作者や演奏者の中にある不安は結果 である表現に転写されてしまうものだ。  音楽制作環境がデジタルに移行し、大きく変ったものがある。得体の知れない、漫然 とした不安だ。アナログに時代にあったものと質が違う。  そもそも最初が良くなかった。記録再生メカニズムが回転ヘッド(U-maticやDATを 指す)のものはどれだけ整備し、仕組みを学び、カスタマイズを繰り返しても信頼性は 少しも向上しなかった。何台スペアを用意しようと、止まる時は止まる。カセットテー プ(フィリップス)の方が、信頼性でははるかにマシだった。  不安を暗示内蔵した音楽になど、誰も金は支払わないだろう。自信に満ちた能天気な ものの方が好まれる。だからといって気が狂ったような高レベルを、CDに詰め込むマス タリングが横行(筆者はあまり批判できない)することにも、筆者には承服できない。 おそらく不安なのだろう。  多くのDAWはこのような背景(マーケッティングリサーチ)をもとに調整されているが、 Audacityには無縁のようだ。Audacityは無理をすれば当たり前に落ちたり異常な動作に なる。使用者は何を要求すれば「無理」になるのか、学び推論しなければならない。 そうすることで不安を解消できる。逆に「無理」をしているはずなのに平然とそれらし い処理が行われている方が、底の見えない不安に襲われる。なぜなら端折った処理を していてもそれに気付かせないような工夫がしてあったり・・音を聴いて気付かない方 が悪いのだが、使用者は気付いても心理的マスクを不安に被せたりしてその場をしのい でいる。 結果を見ればわかるではないか!! 表現者は、もっと不安と正面から戦おうではないか。 この説が間違っているなら、今日の音楽は80年代以前のものより、質的にもセールス的 にも十分に優位になっているはずだ。 ○聴こえるものの曖昧さ  人間の聴覚は極めて柔軟で、自分の置かれた環境に最適化する傾向がある。 聴覚情報ストリームにおいても著しくこの傾向が見られ、例えばカセットテープが その人の聴き取り環境であれば、ダイナミックレンジも周波数レンジも自動的にそこ に合わせ込まれ、その中だけで思考するようになる。76cm/s(30inch/s)テープ速度の 40kHz帯域のマスターテープクラスばかり扱う環境の者が、カセットテープ環境を耳に したとき「耐え難い」と思うほどに、カセットテープ環境の者がマスターテープクラス の音を「すばらしい」とは思わない(認識できない)。すばらしいと認識できるように 聴覚が最適化されるのに相当な時間が必要となるし、場合によってはそうならないこ とも。ダウンは早いが、アップには時間がかかるようだ。(職業技術者の話だが)  これと同じ状況は圧縮ファイルと非圧縮ファイルについても言える。 どちらの者も同じように「生」に接しているはずなのに、再生時には特別な補正フィル ターがONになるのか、あるいはどちらも生に比べると同じように「ダメ」なのか。 おそらく後者なのだろう。  筆者が学生のころ、コンクール向けに微分音の作品を手がけたことがある(1980、そ の直系が「トクサノカンダカラ」シリーズ)。アナログ・ミュージックシンセサイザーを 用いた、通常の主鍵盤と微分音用の副鍵盤+デジタル制御可変速テープコンポジション なのだが、ハードの設計と作曲レベルでは8分音(=1/4半音=25セント)で、純正律的 コヒーレントと平均律的カオスのコントラストに美を求めたのだが、実際に制作を進め て行くうちに25セントという単位が、感覚として容易に認知できるようになったばかり か、「なんと大雑把なスケールなのだろう」とまで感じるようになってしまった。応募 したコンクールに上位入賞できたことよりも、その感覚を手に入れられたことが嬉しく て仕方なかったのだが、その後自分の中の変化に気付き愕然としたものだ。  その感覚が健在だったのは、せいぜい2〜3ヶ月で、8ヶ月も経ったころには、もとの 木阿弥、とまでは言わないものの、腕の一本も失ったような気分に陥ったものだ。 このときの経験があるので、トクサノカンダカラでは最初から微分音ではなく、純正律 と平均律の差分がメローディーコアになるように設計したことで、自分自身の中では 満足度が高いのである。とくにそのような微細上下動のメロディーであっても、特別な 感覚の持ち主でなくても、万人にメロディーとして認知できるように構成できたことは 大きな成果といえる。  アカデミズムの人たちと論争になる一つのネタは、「聴こえるvs聴こえない=犬の耳 には用はない」なのだが、現在の筆者の姿勢は「聴こえないなら聴こえるようにしてや ろう」というおせっかいなもので、そのためには先ず自分がその感覚を取得する必要が ある。その上で噛み砕き、半ば消化した状態で口移しにする、という手法だ。この作品 では20年もかかってしまった。これが筆者の「未知の領域の探索」だ。筆者の取得済み の感覚はこれ以外にも多数あるので、一生ネタに困ることは無い。    ここまで読み進めて「そんな馬鹿な!!」と思う方は、ぜひとも「トクサノカンダカ ラ・ライブ・パッケージ」を召致ください。(ネット上にも権利者に無許可でこの作品 がアップされているようだが、そのほとんどは不適切な圧縮がほどこされており、正 常に再生できているとは言えません)  このような取得可能な「聴こえる感覚」が特殊な才能や能力なのか、という問いに対 して、筆者の見解は、多少のソレはあるかもしれないが、多くの場合、人間の成長の 過程で封印されるものではないか、と推測している。なぜなら、特定の訓練で取得(説 が正しいなら、取得ではなく回復か)できるようになったり、訓練が無くても「暗示と して」なら機能する場合が多いからだ。またその中には聴こえてはいるが、「意識でき ないだけ」と思われるものが多い。感覚へのリンクが切れているのだ。逆に言えば、 意識とはその程度のものなのかも。わからない事だらけでわくわくするではないか。 audacityはこのような筆者の制作スタイルから生じる要求にも、おおむね答えてくれる 能力がある。現段階では構想だけなのだが、上記の「トクサノカンダカラ」CDは数量限 定出版だったのだが、DVD上にaudacityのプロジェクトファイルの形で収め、工程の 一つ一つをリスナー自身の手で進められるように配慮できないものか、と考えている。 注1)コンボリューション(筆者の一つの認識として)  紛れも無くその応用の一つがサンプリング・リバーブである。 空間でインパルス(あるいはインパルスを可逆的に時間軸上に引き伸ばし展開したもの) を放出し、録音したものを雛形とし、あらゆる入力音に適応することで、その空間で 発音し収音したような(つまりアコースティックにリバーブ付加した状態)加工がで きる希望の星。まさにZ変換の申し子的存在。  空間だけではなく、あらゆる電気回路やその集合であるエフェクターなども「標本化」 できるとされる。筆者の記憶では、初めての実用化製品は、SONY社とYAMAHA社から発売 され、現在ではいくつかのメーカーからDAWなどのプラグインとして供給されている。  しかし理論の説得力とは裏腹に、製品公開時からすでに問題だらけで、使い物になる IRデータがあまりにも少なすぎ、製造者もそのことを感じてか、自社のデジタルリバー ブをサンプルしたものが入っていたりした。筆者が勤務するスタジオにもサンプルが 来たが、エンジニア達に好評だったのは、デジタルリバーブのサンプルだったことは 記憶に新しい。  現在ネット上には多くのIRデータ(インパルスレスポンス・データ)が登録されてい るようだが、評判が良いのは歴史的名機のエフェクターなどのデータのようだ。  筆者はネイティブのZなので、いずれは実用化されることを見越して、1978年ころか らサンプルの収集や音源の開発を行ってきたが、物理論理の完全性とは裏腹に、実務 上大きな欠陥を持っている。それは「何処で発音し、何処で取り込めば」標準サン プルと言えるのか、という問題で、音響計測などで培われた技術では「客観性」は得ら れるものの、リバーブとして実用に耐える「位置」を割り出すことには不向きなのであ る。  筆者は当時、実行マシンも無い、その実用化の目途も無い中、当面の用途として、 当時製作していた鉄板リバーブの響きの見本として使用することだったが、そのとき 筆者が苦しんだことは、やはり「実用に耐える位置の確定」だった。そのころの筆者 は完全にマルチ録音主義(それが師匠に知れると破門モノ)で、師匠の教えるペアマ イクの最適化など興味も無かった。しかしリバーブのセットアップがうまくできないこ とや、録音制作でペアマイク勢に惨敗したこともあり、あるとき突如その重要性に気付 き(手切り編集も同じ)遅まきながら必死で訓練したことを覚えている。その上で言え ることは「マルチ録音の技術の延長線上では、最適なサンプリング位置を確定すること はできない」ということだ。また体系化も容易ではない。(現在筆者の大学での2年生の 授業はこのことを重視し、室内楽のペアマイク録音に徹している・・もちろんたった 1年間で習得できるほど簡単ではないが、優れた手本と自分の立て位置の比較を繰り返 すうちに、「感覚」とシビアさを学ぶことができる)サンプリングリバーブの論理的完 全性はおそらく疑う余地は無いように思うが、実務上位置確定にそのしわ寄せがあると いえる。 故にその必要の無いエフェクターなどのIRデータが氾濫するのだ。サンプリングマシ ンと同じ構図ではないか(難度はそれよりもはるかに高いが)。(「バランス・ミックス の心得」の項の歴史を参照) (DAWの人気度合いも、マルチエフェクターの人気度合いも同じ構図だ)  もう一点、現在の主流はタイム・ストレッチしたパルスを、スピーカーから流すこと で実効S/N比を高めているが、これも都合の良いブラックボックスとしてスピーカーを 信用しすぎていないだろうか。(あくまで筆者の個人的意見としてだが)問題提起 だけではどうしようもないので、筆者が実用化した、210円と少しの努力で実現できる 「高性能ピストル」とその特性を、audacity上での処理と合わせて近日公開しよう。  ○単位系、用語、定義の曖昧さ  音楽や音響に関わる学問やそれに順ずる分野、あるいは集団は多岐にわたる。(学問 と言う系列は、概念上は「人」を廃した純粋な理論体系であるはずなのだが、現実には 「人の集団」に過ぎないことは多い・・批判として発言する) 例えば音響学、通信工学、情報工学、音楽学などだが、それらを背負った人たちは、 研究機関、制作現場、機器製造工場などで労働しているのだが、題目の単位系、用語、 定義の問題で、しばしば衝突する。代表的なところではdBの問題がある。ベルの提示し た概念は、あくまで相対的数値表現の補助概念であったはずなのに、dBの後に分野固有 の記号を付加し、絶対数値表現に拡張され使用されることがよくある。dBmやdBv、dBu、 dBsplなどである。これらは日本の音楽制作分野でも比較的使用頻度が高いものだが、 実はこれがそのまま通用するのは、ここ40年ほどの日本と米国くらいのもので、欧州 (現在ではおおむね通用するが)では古くから「電流き伝」または「電流き電」で設計 することが普通で、この系列ではdBm、dBv、dBuはいささか具合が悪い。なぜなら電流 き電では、電圧を伝送するのではなく電流を伝送するという考え方に基づくため、vや uはどうでもよいのである。伝送系インピーダンスと言う概念があるが、電圧き電(米 国系)では∞Ωをモデルとするが、電流き電では0Ωをモデルとする。現在でもその痕 跡は様々なところに見られ、映画産業向けの装置(古くはNAGURAなど)や欧州系医療 機器、身近なところではエレキギターの内部配線などで確認することができる。 これを知らずに接続すると大変なことに・・・。 [電圧き電ではボリュームコントロールの配線が、固定極へ入力、ローター極から出力 になるが、電流き電ではローター極へ入力、固定極から出力となる]  パワーアンプ/スピーカーではさらに具合が悪く、そもそもスピーカーは電圧では動 かない。ボイスコイルを流れる電流値に比例し振動系は動く。 ちなみにAudacityの操作に関わる「dB」は、その後に何も付かない規定レベル「1」 (=0dB)に対する論理相対値だ。また完全浮動小数点系なので、Full Scaleも付かない。  用語の例をあげよう。音を上げる、下げる。国語的表現だが、上げる下げるが暗示す る音の要素が、音量なのか、音程なのか、あるいはホルマントなのか。どれもありうる。  もっと悲惨な例では、オン・マイク、オフ・マイクで、明らかに日本の録音・PA業界の 伝承間違いなのだが、日本の録音・PA業界以外では、ONとは「距離とは無関係」にマイ クロホンが音源方向を向いているときを、OFFとは「距離とは無関係」にマイクロホンが 音源方向以外を向いていることを指している。距離を表すにはclosed-mike、open-mike (もちろん前者が近く、後者が遠い)の語を当てる。マイクロホンの略号もわが国では 「mic,」を使用することが多いが、世界的に見ると「mike,」が圧倒的に多い。筆者は 80年ころから欧米勢と仕事をしてきたが、駆け出しのころ図面(言葉が不自由なハンデ ィーは図面でカバー!!)にmicの記述をしていると、「ミックが一人、ミックが二人 ・・お前は、いったい何人のミックが必要なんだい?」とおちょくられたものだ。  リサージュとリサジュー、ホルマントとフォルマント、あげく、どちらが「JIS」に 採用されてかで得意満面になる。犬のマーキングと同じじゃん。演奏家や音楽家は 定義が小難しいからではなく、犬のマーキングに付き合ってられないから拒絶するのだ と思う。  私の論法や記述に「難有り」の見解を示されることがよくあるが、確かに私の誤解や 勉強量の不足があることは否定しないし、なされた指摘などは検討し、必要な部分は 訂正を行っているが、この項にあるような不統一、あるいは音楽制作分野に不利益と判 断した場合は、訂正は行わない。  本項の最大のポイントだが、「創造性を高く評価する学問は多いが、創造性の介入を 許す学問は存在しない」という問題で、この作文では創造性を加速するツールとして、 ソフトウェアを扱うが、創造性に主体を置くとこのような記述なることは必然と考えて いるし、全体として「翻訳作業」のつもりだ。  この翻訳作業と公開が必要であると決心するに至った現象がある。 筆者は2009年の夏に招聘され英国とフランスに長期滞在し(滞在先はスタジオなど)、 いくつかの制作現場やXXXXの現状を目の当たりにしてきたが、共通していることは、 創作の場であるはずなのに「虚無感」のようなものに支配されている、という困った 問題で、この傾向があることは何も欧州に限ったことではなく、わが国の、筆者の 周辺でも、いや、筆者自身にも起こっていることだ。日々道具(ソフトウェアも含む) は進歩し、物量的にも豊かになっているはずなのに、CDの売り上げが〜などということ を考えなくても良い仕事であっても、虚無感がつきまとうのだ。いざ作業に取り掛かろ うとすると、突然それは来るようだ。(筆者の場合はそれほどひどくはないが、音や 音楽に没入する度合いは、明らかに低下している)  自己分析してみると、先が見えるものほどつまらないのだが、その度合いが尋常では ないのである。逆に多少のストレスがあるほうが、戦意は萎えない。ところが、多くの ソフトウェアでは動作メカニズムが複雑で、どこに限界(そのソフトや自分の作業の) があるのか、判然としないことが多く、そのことが底の見えない闇につながっているの だ。この問題はaudacityでも同様で、結局何ができて何ができないのかを見極めること でしかこの問題の解決にならないと気付いた。  この習慣は今に始まったことではなく、かねてより新たな機材を導入すると、徹底的 に解析し、マニュアルに膨大な書き込みをすることが筆者の慣わしなのだが、DAWに関 してはその作業に時間がかかることもあり、中途半端な状態が続いていた。漫然とした 虚無感を払拭すべく、様々なDAWでこの作業(それ以前に音を聴けばおおよそはわかる が)を行ってみると、「音楽制作」に関して評価以前の問題を含むために、検証作業 続行が不可能なDAWが多いこと、また設計者の志向までも見えてしまい苦しい期間が 続いたが、ユニバーサルなツールとして明晰な志向を持つものがaudacityを含む数機種 しかないことも。  とにかく漠然とした底の見えない闇は、この検証作業で払拭できたのが3年前で、 公開を前提に、翻訳作業と再検証をはじめたのが1年前、といった経緯である。それな りに非難もあるが、晴れ晴れした気分だし、起動しても虚無は来なくなった!