audacityと偶然性、あるいは即興                         (C)Y.Utsunomia 2008-2010 モダン・アートの学生諸君や若い演奏家と相談(多くは作品についての質疑) していると、しばしばその中に「偶然性を取り入れて〜」という会話がなされる。 このフレーズはモダンの人たちとの間に限り出現するが、私はしばし「それはど ういう意味なのか」と考える。  取り入れるとは「制御する」ということなので、映画「オーメン」の主人公さ ながら、「自らは手を下さず」「因果律を操る」のか・・・。 偶然とは広辞苑によれば (イ)原因がわからないこと。客観的な偶然を否定する極端な決定論の立場からの主張。 (ロ)歩行者の頭に瓦が落ちてくる場合のように、ある方向に進む因果関係系列に対して、 別の因果系列が普遍的理由なしに交錯してくる場合。一般に必然的な法則は、現実には 無数の因果系列の交錯の中でしか貫徹されないから、常に偶然的事情がともなう。 _必然。 と、説明されるが、広辞苑第5版では (ア)原因がわからないこと。(イ)歩行者の頭に瓦が落ちてくる場合のように、ある方向 に進む因果系列に対して、別の因果系列が交錯してくる場合。一般に必然的な法則は、 現実には無数の因果系列の交錯の中でしか貫徹されないから、人間の認識の不完全さ のために常に偶然的事件が起る。 と改定されている。 世の事象は、おおよそ無数の必然系という因果系列により理路整然と進行するが、 その系と異なる出来事を偶然というらしい。特徴は「真の偶然」と上記「人間の 認識の不完全さ」に起因し偶然的と見なせるものがあるのだそうだ。  モダンの人たちのいう偶然とは、上記のような「偶然」とやや異なる。ケージ (ジョン)の唱える「偶然」がそれにあたる。その説明にケージは「易」に着想 したとする説明が多いが、それ以前に彼はキノコマニアで、それも森でキノコが 「いつ」「どこに」「どんな」キノコが出現するか、眺めることが無常の喜びだった そうだ。その微妙な「予想できそうな」それでいて「意表をつく」現象(人間から 見たとき)こそ、彼のいう「偶然そのもの」なのである。 一見「易」における偶然性と大差ないようにも見えるが、キノコの場合は、キノコ にとって自分の発芽タイミング「いつ」「どこで」「どんな」は死活問題であり、慎 重に熟慮を重ねた結果である、ということが重要なポイントなのである。つまり 表現する側(演奏者や作曲者)はキノコなのであり、最良に向け努力を惜しんでは ならないのだ。しかしその努力は観察者(聴衆)には不可知であり、このことを ケージは「偶然」と称したようだ。 しかしこの人知れず努力をすること自体は、音楽家にとっては古来より当たり前な ことであり、偶然と称するよりも筆者は「当然」と呼びたい。当然系で芸術は存在 するものと確信している。  audacityと必然系 様々なDAW(ソフトウェアに限らず道具・機材一般)を試してみると感じることだが、 設計者の思想や見識が、その道具の印象を決めている。「こんな具合に使ってくれ」 というメッセージすら感じられる。例えばMIDIシーケンサーなどでは、コピー& ペーストに長けたものや、逆に鍵盤からの入力を記録再生することに長けたものなど、 どちらも同じシーケンサーであっても、自然と使い方が導かれてしまう。その中で 工夫をしても、設計者の手のひらの上でころがされているだけ・・。 もちろん結果は同じにはならない。 DAWでも同様で、どれでも同じような結果になりそうなものだが、所詮は設計者の 意のままなのか。  よく感覚的な操作(マニュアルを熟読しなくとも、意のままに扱える?)がセール スポイントとして取り上げられるが、これは使用者のしたいことを先回りして用意 しているともとれるが、反面、用途を限定しかねない。つまりターゲット使用者に頻繁 に使用される機能は、より簡易な操作で実現できるように工夫をしてある、が、それ以 外は逆に面倒になっていますよ・・・と、いうことなのか。  確かに「感覚的に」作りたい音楽が自動的に発生できる装置があれば楽しそうだし、 実際に音楽家は相手が楽譜であろうと楽器であろうと、PCの操作画面であろうと七転 八倒するのであるが、ときにどういう経過でそうなったのかは記憶に無いが、幸運にも 「いい感じ」に仕上がることがある。使用者は「偶然」そような結果になった・・・・ 良い装置だ・・と思うらしいが、所詮は設計者の手のひらの上で転がされているに過ぎ ないことを忘れてはいけない。  決して敷居を高めるためにそうなっているわけではないと思うが、デジタル・オーデ ィオに許される、おおよそ全ての可能性をaudacityはカバーしているが、そこに内在す る必然系を無視した偶然性は、audacityにおいてはクールに除外される。ある意味、 学ぶことを強要される。(練習問題はそのことを実感させてくれるだろう) 例えば、audacity ではサンプリング周波数やビット深度はいついかなるときにでも任 意に変更可能であるが、ナイキスト理論について最低限は知っておく必要があるし、 ポピュラーに使用するにはあまりに強力なイコライゼーションも理論の裏づけがなけれ ば使いこなすことは困難だろう。  しかし、audacityではそれがどのように使用されるか、設計者はクールに関知しない のである。そこに新たなイマジネーション(可能性)が秘められているのではないかと 筆者は考えている。無論、忍耐は必要であるし、知識を持った者にうまく質問し回答を 引き出さなければならないし、・・・イマジネーションを妨げる余計な制限は設けられ ていないのである。デジタル・オーディオとはこんなものなのだ!! ここで得られた偶然は正しい偶然と言える。 ちなみに筆者は偶然も即興もオカルトの部類と考えている・・・・筆者の交友関係には 即興演奏家が多いのはどういうわけか。