Master Fader は何処                         (C) Y.Utsunomia 2009  マスターフェーダについては「トラック数とdB」の項で、ある程度解説しているが、 具体的な作業手順などを含め、その意味について考察したい。「バランスとミキシング の嗜み」の項も参照。 アグレッシブな読者の中には、マシンの操作様式を強要されることが我慢ならない方が 多いかもしれないし、無論あなたの手元にある装置を、あなたがどのように使用するか はあなたの自由です。 しかし、それら装置には必ず「設計者」や「製造者」がいるし、彼らは一定のルールに 従って設計や製造を行っている。 優れた結果を得るには、そのルールや思想について最低限学習や訓練が必要であること を忘れるべきではない。かつての大規模マルチ録音スタジオ(現在でも「ある」が) などでは、それらルールや思想について、あまりに無知であると判断された場合、無知 が原因で何らかの損傷をスタジオに及ぼすと判断された場合、いかにクライアントであ ろうと出入り禁止処分になることはしばしばあった。(NHK電子音楽スタジオでは、そも そも作家であろうと演出家であろうと、NHK職員以外は機材に指一本触れることも許可 されなかったので、そのような事例は聞いたことが無い) *************************************** 爺くさい説教のような文章になったが、マスターフェーダにはそれくらいの重みが ある。こころして使用すべきなのだ。運用が不正確なら結果もそのようになる。 *************************************** スタジオミキサーにおいて、マスターフェーダーには明確な使用基準やルールがあり、 その使い方(他のフェーダを含め)を見るだけでその人の技量が知れるものなのだ。 スタジオミキサーのマスターフェーダーの位置は、<<通常ユニティーゲイン位置>> をキープしなければならない。  多くのミキサー製造会社において、ユニティーゲイン位置は<<0dB>>で、多くの 製品において上端位置がそれにあたる。 この場所を死守しなければならないのだ。この位置は最大のS/N比、最小のひずみ率、 安全な使用レベル(機種によっては、連続した長時間のオーバーレベルで回路などの 劣化を招く)が保障される唯一の場所なのである。(もちろんその位置でマスターレベ ルメーターが標準運用レベルでなければならないが) 何のためにフェーダーになっているかは、極論すれば、フェードインとフェードアウト 専用といっても過言ではない。(それ以外の使用方法が無いわけでもないが・・) 回路などの破壊にはつながらないものの、現在の多くのDAWでも事情はまったく同じだ。 これは、先の設計思想やルールが共通だからで、その意味では70年代から大した進化が 無いことになる。 ☆理由を説明しよう そもそも回路(あるいはロジック)には「扱うことのできる最大レベル」というものが あり、そこを0dB(先のユニティーとは別の意味)と規定する。(後述する浮動小数点 系では、この概念が変わっているが)この「扱うことのできる最大レベル」とは同時に 「越えると何が起こるかわからないレベル」という意味だが、一般には歪みが急激に 増えるレベルを指している。 レベルを表示する装置をレベルメータと呼ぶが、ミキサーの本線系(マスター系)の レベル表示をマスターレベルメータと呼ぶ。このメータがオーバーレベルになっていな ければ、とりあえず歪んでいないと考え、「できるだけ高いレベル」を、かつ「0dBを 超えない」ように作業するのであるが、作業に不慣れな操作者が扱うとしばしばオーバ ーレベルになってしまう。不慣れな操作者であっても「メーターが振り切れていること がマズい」ことくらいは理解できるが、不慣れな操作者が次に行うことは、このオーバ ーレベルを「マスターフェーダを下げることで解消」しようというふうに思考するので ある。  しかしこの思考が間違っているのであり、未熟者と判断される根拠になるのだ。 なぜならマスターフェーダが最大(=ユニティー=増幅率0dB)のときにレベルメータは はじめて正確なレベルを表示するのであり、メーターが振り切れているときにはマスタ ーフェーダーを絞ってメーターの振れを正常化しても、その前で確実にオーバーレベル しているからだ。  正しく設計されたミキサーでは、すべてのフェーダがユニティーのときに、最前段 (多くの場合HAまたはPBアンプ)の運用レベルまでも直視することができる。 すべてがユニティーのときに、そのマシンはHAから最終段まで同じレベルで同時にクリ ップするのだ。NHKの中継回線では、東京の本局がクリップしているとき、鹿児島の終 端局でも同時にクリップするのだ。ユニティー時にそうなるように、「キャリブレーシ ョン」される。 別の言い方をすれば、ユニティーにセットされた調整は「バイパス」された状態に等し いのである。この鉄則があるので、どんな複雑そうなマシンでも全体の動作状態を同時 に把握できるのだ。フェーダーを下げなければメータがオーバーしてしまう状態とは そのフェーダの前で「歪んだ状態」が保障されるのだ。アナログ回路で構成されたミキ サーでは、このような運用は回路の劣化につながることがある。現代を代表する某プロ ツールズでもまったく事情はまったく同じだ。  筆者のところには某作曲家から接収したRoland/BossのBX-16という小型の普及品ミキ サーがあるが、各チャンネル、マスターフェーダにユニティー(0dB)の位置表示が無か った。もとのその状態では大変使い勝手が悪く、S/N比もあまりよくなかったが、実測 値からユニティー位置を割り出し、表示を行ったところ、なかなか侮れない能力に変貌 した。確かにユニティー位置運用は最大S/N、最小歪みをマークできる。ただ、ユニテ ィー位置はマスターフェーダーの下半分になるため、なかなかセットしづらいのだが・・。  (筆者のことを改造マニアのように言う者がいるが、現実にはこのようにユニティー を割り出したり、表示を改善することで、本来そのマシンが持っている能力を引き出す ことが物理的改造よりも優先している。それでだめな場合にはじめて物理改造を行う。)  この問題を解消するには、各チャンネルフェーダーあるいは、各トラックのレベルそ のものを調整するしかなく、そのためには「トラック数とdB」の項の計算ができなけれ ばならない。現場的には熟練と感覚でこのレベル設定を行うのだが、正確に計算すると (あるいは電子音楽では)先の計算式に従うことが正しい。 ○audacityでは  audacityでもミキサー部分の設計思想やルールは同じなので、正確な運用には「トラッ ク数とdB」の項の計算が必要なのだが、おそらくは不慣れな操作者が、安易にマスター フェーダを下げることを避けるために、最初からマスターフェーダーを装備していない のである。そのかわり、最初からフェードイン/アウトのコマンドを装備しているし、 さらに強力な機能として、各トラックにフェーダー機能(エンベロープツール)以外に トラックゲインのスライダーが装備されている。画期的なアイディアだ。おしむらくは このスライダーの全トラック連動機能があれば、より素敵なのだが。 マスターレベルメーターのオーバーは、マスターフェーダーを下げるのではなく、各ト ラックのトラックゲインを下げることで対応しなければならない。だから連動機能が 欲しくなるのだ。(「トラック数とdB」の項を参照)  もしこのトラックゲインが付いていなければ、それぞれのトラックを「増幅」相当の コマンドでレベルを一旦下げて、その状態でレンダリングする必要がある。トラックフ ェーダーを下げるだけではダメな構成のDAWが多い。audacityはこの点大変優秀だ。 (ver,1.3.8〜完全浮動小数点化されたので事情は変化したが・・・・下記参照) ○audacityでの操作手順  マスターフェーダーで行う操作は、どのみちマスタリングに属する作業と考えるのが 合理的だ。ミックスの時には触るべきツマミではない、と考えましょう(マジメです・ 実際に古典的大規模マルチ録音スタジオの作業でも、ミックスそのもの作業でマスター を不用意に触れるプロなどいないだろう)SSL社の大型ミキサーなどでは、ユニティー 位置を示す(ユニティーになっているときにだけ点灯する//ユニティー位置を変更設定 できる)ランプまで付いている。  ミックスされたトラックに対しては、エンベロープツールが使用できるので、なんの 不自由もないだろう。2ミックスされたトラックに対して行う作業は、もはやミキシン グではあるまい。何を混ぜるというのか。明らかにマスタリングの領域である。 ☆ 浮動小数点演算が果たす変革  開発当初からaudacity は内部演算が32bit浮動小数点だったようだが、ver,1.3.7ま では「1」以上が無い、半浮動小数点処理だった。つまり1(最大レベル=0dB)を超える と、信号は不可逆的変化(クリップ=歪む)を起こす、従来からのしきたりに従った ものだ。ところがver,1.3.8以降では完全浮動小数点化され、再生などではデバイスの 都合上1を超えると歪むが、内部的には実質無制限に高いレベルでも歪むことは無く、 その結果、1(0dB)を超えても、「増幅」や「正規化」などのコマンドを使用し、レベ ルを最適化すれば、歪んでない信号を取り出すことができるようになった。  同様の挙動のDAWにサンプリチュードがあるが、このような完全浮動小数点化を進化 と考えるか、つかみ所の無い「異常なもの」ととらえるかは微妙である。もちろん、 上記したようなマージン計算をしなくても歪まないので、便利ではある。 しかしこのような「歪まないDAW」を使っていると、自分の操作が「一定レベルで歪む」 ことを前提にミックスしていることに気付いたりする。正直なところ個人的には使い づらいと感じることも多々ある。 **追記:確証があるわけではないのだが、ver,1.3.7以前で得られていたクリップに  よる歪感と、ver,1.3.8以降で故意に固定してつくるクリップによる歪感が、何とな  く相違があるように感じられ、それが上記の「使いづらい」と感じることの原因のよ  うだ。違いがあるなら何らかの方法で検証ができるはずなので、いずれ検証方法を  考えてみたいと思っている。 どちらのバージョンもあるので使い分ければ問題ないのだが・・・。