audacityをMid-Sideステレオ録音などのマトリクス処理に応用する。                         (C)Y.Utsunomia 2008-2010 ステレオ録音について、詳しくは専門書を参照いただきたいが、Mid-Side方式とは使用 されるマイクロホン(Mid-Side配置されたカプセル)に由来した録音方式の名称である。 録音対象の音源方向へ向けた単一指向性カプセルと、音源方向へ無感度方向配置した双 指向性カプセルとの加算、減算をへて、それぞれLチャンネルRチャンネル出力とし録音 固定する方式だ。この加算減算には専用のマトリクス・トランス・ボックスが使用され るが、audacityを用いることで、より高度な処理が可能となる。 +++++++++++++++序論+++++++++++++++++++++++ 現在でも多くのコンサート・ホールの吊り込み常設マイクロホンとして、ノイマン社の U-69などが多用されている。 特徴としてはMidカプセルが音源方向に向けられるため(ペアマイクステレオではどちら のマイクロホンも音源方向正面から外れてしまう・・・)、中央定位が明確に得られ、 同一箇所(微妙な位置差はあるが)に配置したMidとSideの加算・減算によってL/Rそれ ぞれの信号を演算算出するために、L/R間での時差が発生せず、またL+RでMono(=Mid)と なるためモノとの互換性が高い(放送などのメディア互換性が高い)ということがあげ られる。 反面、L/R間に時差成分が無いことから、天然聴感覚にあるハース効果などが利用できず、 自然なステレオ感とは異なるMSサウンドになってしまうことなどが利点でもあり弱点で もあるが、取り扱いが極めて幾何学的演算性に富み、様々なアレンジが可能である。 (後述) このため、録音後にL/R指向性の開き角度などをリモート制御したり、再生時に同様の 制御を行ったり、あるい指向性そのものを変更したりすることが可能である。この「後 から調整」機能は、業務において大変重宝される。(しかしアナログ録音時代のレコー ダーの標準的整備状態では、その幾何学的演算精度を生かすことが不完全で、その使用 や応用は限定されたものであった。詳細後述) 基本的な演算式を展開する前に、一連のマイクロホンの指向性そのものについて演算式 化する必要がある。 マイクロホンの基本指向性は無指向性(Omni:O)と双指向性(Bi:B)の2つしかない。 これは、マイクロホンダイアフラム(振動板)の裏表間の圧力差によりダイアフラムを 動かすと無指向性・・・ダイアフラムの片側をボディーで覆ってしまう(密閉する)と なるためで、圧力差に方向は存在しないから無指向性となる。 双指向性は有限の大きさのダイアフラムが空中に固定された状態で得られる。ボディー のないダイアフラムが空中に固定されているだけなので、ダイアフラムの表裏の圧力差 は存在せず、空気の流動(流動速度)でのみダイアフラムは動く。(動かなければ電気 信号に変換できない) 単一指向性(Uni:U)は無指向性と双指向性を同レベルで加算することで得られる。 「U=O+B」 具体的な構造は、無指向性カプセルのダイアフラム裏面ボディーの一部に穴を設け、音 響抵抗(布など)をセットするという、半端な機構で実現する。このためどうしても無 指向性や双指向性に特性的にも聴覚感覚的に劣る傾向があることは否めない。 また、古い時代には単一指向性を得るのに、ひとつのマイクボディーの中に単一指向性 カプセルと双指向性カプセルを同居させ、それを電気的に混合して出力するものもあっ た。混合比率を変化させると中間的な指向性も得られる。 双指向性はリボンマイクでしか得られない。(原理的問題として) 双指向性はダイアフラムの前後(表裏)が構造的にシンメトリーになっている必要があ る。 ところがダイナミック型でもコンデンサー型でも振動板はともかく、それに接続される 発電機構がシンメトリーに配置することが困難とされる。 ダイナミック型では壷型の磁気回路の中に、コンデンサー型では片側に固定電極を配置 する必要があるからだ。もちろん磁気回路をダイアフラム前後にシンメトリーに配置し た製品も存在はしている。 ノイマン社ではこの問題を、上記の幾何学的演算によって解消した製品を発表し、この 方式は現在の多くのコンデンサーマイクロホンの原型として珍重されている。 単一指向性カプセルを背面どうしで2個合体させ、お互いの背面がお互いの音響抵抗に なるように、シンメトリー配置するアイディアで、現在の多くの可変指向性コンデンサ ーマイクロホンの基本構造となっている。 前後の単一指向性カプセルをそのまま加算するとU+U=(O+B)+(O+(-B))=2O・・・無指向性 前後の単一指向性カプセルを差し引く(片方のカプセル出力を極性反転し加算すると)                   U-U=U+(-U)=(O+B)+(-(O+(-B)))=2B・・双指向性 前の単一指向性カプセルのみで・・・単一指向性 が得られる。 このアイディアの画期的部分は、高特性の無指向性と双指向性を組み合わせて半端な単 一指向性を得るのではなく、単一指向性に全てを特化したカプセルを背面組み合わせで 実現し、(背面組み合わせにすることが単一指向性にとっての最適化であると考え)そ こから逆に無指向性と双指向性を作り出そうというものである。シンメトリーであるこ とで双指向性に、またダイアフラムを対向させ密閉化することで無指向性であることに も最適化されるというものだ。合理的なのである。 さらに幾何学的演算は進化する。(Mid-Sideステレオ化) では音源方向に向いた単一指向性と、音源方向に無感度方向配置した双指向性の組み合 わせではどうなるだろうか。 双指向性の極性が、向かって左向き「+」とすると、単一指向性(Mid)に双指向性 (Side)を足し合わせるに従い、指向性主軸は左にずれていく。 M+S=(O+B)+kB=U・・左よりのU=L 単一指向性から双指向性を差し引くに従い、指向性は右にずれていく。 M-S=(O+B)+(-kB)=U・・右よりのU=R (kはSideの混合率) ここで注目すべきはモノ化したときだ。L+R=(M+S)+(M-S)=M つまりSideの成分は打ち消 しあいMidのみ・・・完全なモノになることだ。(アナログ時代にはわずかな整備不良で も、そうならなかった・・後述) また、L/Rに合成された信号からもとのMidとSideを再び復元することもできる。 Midの復元は上記のようにL+R=(M+S)+(M-S)=M+S+M-S=2M で得られるが、 Sideの復元は      L-R=(M+S)-(M-S)=M+S-M+S=2S のように得られる。 要は足したり引いたりするだけだ。 同様に十分高精度に配置されたX-Yマイクロホンでは、M-S型同等の性質が得られ、X-Yで ありながら、仮想Mid、仮想Side信号を得ることができ、録音後の信号であってもMS分離 することで、開き角度の「後から調整」がある程度可能だ。 実際にM-Sマイクロホンとして作られた専用のものでなくても、単一指向性のマイクロホ ンと双指向性のマイクロホンの組み合わせでも、マイクロホンのレイアウト位置、精度 に配慮すれば十分に実用的性能が得られる。 さらにMid、Side、に加え、後ろ向きのBack(単一指向性)があれば、水平方向360度全 方向の、サラウンド4チャンネル「後から向きの調整」ができる、そんなことが実現可 能だ。 またSideも双指向性ではなく、2つの単一指向性のまま保存しておくと、より完全な 「後から調整」が可能となる。 実際に’70年代後半には英国カルレック社から正4面体配列の3次元全方向指向性のマイ クロホンが発売されている。ただし1チャンネルあたり4トラック録音の必要があるが・ ・・。 高精度の多チャンネル録音が容易に行えるようになった現在、再び注目する価値がある のではなかろうか。  注)高精度とは、アナログ時代、レベルやイコライゼーションなどが不安定で、キャリ ブレーションの助けがなければ、まともな録音再生ができなかったものが、デジタル化 にともない、それらが不要になったこと、時間軸精度においてもトラック間の時性の一 致(アナログにおいてはアジマスなど)は同様にキャリブレーションによってのみ支え られていた。しかし後者の時間軸精度について、デジタルMTRがある程度使用可能な性 能になったのは、ここ数年(現在2009年)のことで、依然として多くのデジタルMTRの トラック間時間軸精度が怪しいことは現実である!! 注注)時間軸精度の怪しいデジタルMTRの使用では、上記の演算はすべて無効だ。  どの機種がどの程度のトラック間時間軸精度を持っているか、公表されてはいないし、 メーカーも発表しないが、編集などの各種加工機能が充実している機種ほど悪い傾向が ある。 audacityを活用すればそれほど難しい検査ではないので、気になるなら検査を行ってみ よう。 アナログ録音時代に問題だったのは、上記のように厳しいキャリブレーション環境が無 い運用環境では、この「足したり引いたり」が正確にできず、結果的に録音現場で録音 前に「足したり引いたり」したものを録音するしかなかったのである。原理的に「後か ら足したり引いたり」できるはずなのに、一度録音再生を経ることで、ストリーム・コ ヒーレントが乱れ、あるべき状態がえられないのだ。業務におけるたしなみでは、録音 の直前に、必ずそのテープロールの頭部分に1kHz、10kHzなどのキャリブレーション信 号を録音し、再生するときにこの信号を手がかりに「録音環境を再現」する必要があっ た。その手がかりとして読み取れるものは、録音ヘッドアジマス、録音レベル、イコラ イゼーション、テープ速度などで、他人の録音物の再生ではちょっとした考古学者の気 分になれる。 またこれらの変動要素は、テープのロット、(極端に言えばテープの頭と巻き終わりで も異なる)気温、電源環境、設置状況で変化するため、テープ一巻ごとに調整を行って いた。慣れればどうということはないし、十数トラック分について数分で終わる作業な ので、大した手間ではないのだが、正しい運用知識と手順が要求される。 デジタルにおいてこのような問題から解放されたのはうれしいが、根本的にすべてに 「遅れ」という、アナログには無かった要素が絡み、しかも設計者によってこの認識に 大きな相違がありしばらくは「マシン不信」に陥るほどだった。現在でも手放しで製品 を受け入れられる状況ではない。現状で筆者のデジタルMTR時間軸検査合格率はわずか 5%程度にすぎない。少なくとも現市場で95%の製品は時間軸精度に致命的問題があり、 少なくともMS録音で上記のような作業を行おうとすると破綻するということを意味して いる。そんな95%の製品で現在の音楽シーンが支えられていることは驚嘆に値するし、 シーンが見放されても当然だろう。なぜ使用者は検査しないのか。 まぁ、5%あるだけ幸せなことなのだが・・・。  ちなみにaudacityであろうと、信号の合成、ファイルの加工、操作、ミックス、分析 には使用できるし優秀な結果が得られるが、録音・再生については検査に合格しないし、 そのため筆者の環境では録音や再生に使用されることもない。 ************** 実際のaudacityでの運用 ************ 作業条件は、MidとSide(単一指向性と双指向性の出力)が個別トラック(あるいはス テレオトラックとして録音されているファイルが用意されているとする。 基本は前半で記述したように「足したり引いたり」である。足すことはMixなので解説 の必要は無いと思うが、audacityをはじめとするほとんどのDAWやターミナルソフトには 「引き算」のコマンドは無い。「差分抽出」の項で触れたようなテクニックを活用する。 つまり、引き算はA-B=CのAに相当する「引かれる数」とBの「引く数」がある。 式を変形し A+(-B)=Cの表現で作業を行う。 具体的な作業では、 ステレオトラックの場合はトラック左のプルダウンメニューから、 1)ステレオトラックを分離 2)それぞれのトラックを、トラック左のプルダウンメニューのmonoを選択 (audacity固有の問題だが、ステレオトラックを分離しただけでは、panがLとRに振り 切れた2個のステレオトラックになる。表示上はモノトラックに見えるが、正しくモノ トラックにするためには、それぞれのトラックをmono指定する必要がある) 3)双指向性トラックを「効果」→「上下を反転」し 4)単一指向性トラックとミックスする というふうに処理を進める。 しかし、これではMidとSideの混合比率を滑らかに変化させにくいので、多少の工夫を 行う。 1)ステレオトラックを分離 2)それぞれのトラックを、トラック左のプルダウンメニューのmonoを指定  (以降、必要なとき以外はPANを変更しないこと。 3)必要ならこの段階で「増幅」により正規化(ピークで-6dB程度を推奨)  Midに対してSideのレベルが低いことは異常ではない。  また正規化はMidとSide個別に行う。また増幅度をメモしておくと後で役立つ。 4)monoトラックを「トラック」コマンドで「新しく追加」し 5)その新しいトラックへSideトラックをコピー&ペーストする。  (方法はトラック左側のサンプリング周波数表示あたりを左クリックすると、そのト   ラックが選択できるので、波形の色が濃くなり選択を確認した後、Ctrl+Cでコピー。   次に同様に新しいトラックを選択し、Ctrl+Vで貼り付ける)   *2番目のSideトラックと同じ内容のトラックが3番目のトラックにできたはず。 6)3番目の新しいトラックを選択し、「効果」→「上下を反転」 7)2番目のトラックの左のプルダウンメニューを開き、「ステレオトラックの作製」を   実行 *この操作で一つのモノトラック(Mid=単一指向性)と、一つのステレオトラック (Side=双指向性)が並んでいるはずだ。正しく処理できたか検証するには、Sideトラ ックを2つのモノトラックに分離し、足し合わせると何も残らないはずだ。(差分抽出の 項を参照) 再生し、2番目のステレオトラックのレベルスライダーを調整し、効果を聴覚で確かめ ながら最適バランスを決定する。 ファイル出力する場合は、Ctrl+Aで、全てのトラック(あるいは必要なトラックのみ選 択し)「書き出し」(ファイルタイプを必ず確認のこと)を実行する。(バランスを決 定したときに聴いた音よりも、ファイル出力した音の方が音が良いはずだ) ちなみにaudacityとともにダウンロードできる拡張プラグイン(LADSPA plugins)が 実装されている場合には「Matrix: MS to Stereo」などのプラグインも用意されており、 上記の作業を自動的に行うことができるらしい。 *ステレオ信号にデコードされた信号、あるいはXYマイクロホンで収録された信号から  Mid信号とSide信号を復元する。 (復元すると、再びMidとSideの混合比を調整し直し、広がりの補正が可能となる・・・  広がりを狭める方向へは、L/RのPANを中央方向へ調整すれば良いが、広げる方向へは・ ・・) 0)録音レベルが低く、正規化が必要な場合は、全ての作業に先立ち、最初に正規化処  理を行う。ただし加算減算があるため、ピーク値で-6dB程度にとどめる。  また、アナログ記録メディアからの信号であったり、出所不明な怪しい音源の場合、  必ずリサージュの確認や、ヒアリングを実施し、レベルとタイムアライメントの調整  を行うことが望ましい。(audacityは1サンプル単位でタイムアライメントの調整が  できるため、L/R間に時差があったり、ペアマイクステレオのセンターがずれていて  も容易に修正できる) 1)ステレオトラックの場合は、トラック左のプルダウンメニューから、「ステレオト  ラックの分離」 2)同プルダウンメニューを開き、それぞれのトラックをmono化する 3)上のトラックプルダウンメニューから「新しく追加」でモノトラックを作成  (ここまでで3トラック。上からL、R、無音) 4)2番目のR信号を選択し、Ctrl+Cでコピー 5)3番目の空きトラックを選択し、Ctrl+Vで貼り付け 6)3番目のトラックを選択し、「効果」→「上下を反転」を実行 7)2番目のR信号のプルダウンメニューを開き、「ステレオトラックの作製」を実行 8)Ctrl+Aで全てのトラックを選択し(あるいは必要なトラックをCtrl+左クリックで   全て選び)   「ミックスして作製」または書き出しでファイルアウト。 *ファイルアウトされたステレオトラックのLチャンネルがMid、RチャンネルがSideであ  る。 1)以降のすべての工程で、レベル調整をしてはならない。 原理的にはMS to Stereoと同様である。